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2006年7月31日 (月)

映画「ジダン」の二重の驚愕

映画「ジダン 神が愛した男」の今日び珍しい実験性に驚きました。昨年4月23日のレアルマドリードvs.ビジャレアル戦のジダンを試合の最初から最後までほぼリアルタイムで追ったドキュメンタリー。17台のカメラでジダンだけを追い続け、顔や足の異様な超アップから、TVの画面を拡大した荒い映像まで、リアルタイムで進行しているサッカーのゲームは追わずにひたすらジダンの動きだけを追う、しかも何をやってるのかわからないほどのサイズだったり、どんな局面で、誰からボールが来て、誰にパスしているのだかほとんどわからない。ゲームの展開もほとんどわからない。これはサッカー好きなほどフラストレーションがたまりますし、映画好きでも退屈します。昔アンディー・ウォーホルが延々8時間ぐらい眠り続ける男を撮った映画ってのがあったそうですが、それに通じるものがあります。今時遅れてきた「前衛」ってことでしょうか。監督は現代美術畑の人らしいですね。

しかし観続けていると、いかにジダンといえども試合の中ではこんなに少ししかボールに触れないものなんだとか、割と平凡なプレイが多いんだとか、こいつほんとに省エネで必要最低限しか走らないなあとかに気づかされます。また、ジダンの孤独がどんどん極まっていくかのような、息苦しいまでの映像と音。まさに「長距離ランナーの孤独」ならぬ「フットボーラーの孤独」です。

そしてそして最後に、ある衝撃が待ち受けています。今、日本公開のこのタイミングで、この映画を観ることの運命的な凄さ、それはある意味この作品の「意図した前衛」を軽く凌駕しています。このエンディングで観客は、座席を外されたかのように、時間と空間が混濁した虚空に投げ出されるのです。

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