映画「ミルク」と偏見の怖さ
ガス・ヴァン・サント監督の映画「ミルク」は、偉人でも怪人でもない、ある意味とっても“普通の”人であるハーヴィー・ミルクとその時代をニュースフィルムを交えながら追っていきます。’70年代を舞台に活躍し凶弾に倒れたたミルクの生涯は、まさに’60年代の黒人公民権運動におけるキング牧師に重なります。 この映画はゲイだとかそうじゃないとかの話ではなく、実話を描きながら人間の平等と差別の問題を普遍的にうたっています。 そういった意味でショーン・ペンが見事に“普通の”人間として演じるミルク像は、それが高潔すぎず、弱みもかかえつつ、あなたや私のそばにいる普通の誰かに見えてくるところが、この映画のキモとなっています。 それと対比されるゲイ差別主義者の愚かさや馬鹿馬鹿しい発言が、やはり人種差別と重なってきて、「こういう一歩一歩を重ねて、歴史が変わっていくんだろうなあ」と思わずにはいられませんでした。 大江戸はまったくのところストレートではありますが、やはり自由と平等を求めるミルクたちの「戦い」には、リベラリスト(?)の血が騒ぎます。
結局世の中の争いごとはすべて「無理解」「不理解」から起こるのです。得体の知れない相手、自分と姿かたちや行動の異なる相手への根拠なき不審、恐怖、嫌悪が、相手への非難、攻撃につながるのです。戦争から始まって、会社の中や社会の中でいくらでもある話です。 「嫌なやつだと思っていたが、付き合ってみると案外いい奴だ」とか、「ひどい国だと思ってたけど、人々は結構いい性格なんです」とか、「この部署はヒマでみんなろくに仕事してないと思ってたけど、いざ入ってみると忙しいしみんな熱心なんで驚いた」とか・・・。 偏見は心に巣食っているからこそ偏見なのですが、自分で心してその危険性を意識しているだけでも、違ってくると思うのです。
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