「その夜の侍」:映画として成立させる難しさ
映画『その夜の侍』は、もともとが演劇で、その戯曲を作者本人(赤堀雅秋)が脚色・演出した作品。極悪非道のひき逃げ犯と妻を殺された男・・・古典的に面白くなりそうな設定なのですが、うーん、大江戸は失敗作だと思っています。終盤に腰砕けになったとしか言いようがありません。
堺雅人がカッコ悪い、いやむしろキモイ男を好演しています。山田孝之が鬼畜的悪人をいつものように演じてます。綾野剛がその卑小な小者感を充満させてますし、新井浩文は何か腹に一物ありそうなグレーゾーンの感じを出してます。役者がみんないいのは、演劇がベースとなっているからでしょうか。それにしても山田君はすっかり「日本一の悪役」が板についてきましたね。顔の作りはきれいだし、弱く清く正しい「電車男」だったのに・・・。
クライマックスの雨中の対決は、その雨とぬかるむ泥の表現、肉体と肉体のカッコ悪くも必死の壮絶さにおいて、映画史に残るかもしれないほどの出来。。『七人の侍』をすら、ちょっと思いました。ワンカットえんえんの手持ちキャメラと照明が凄いのです。
ただその結末にカタルシスはなく、奇妙な展開に疑問だけが残ります。これ、演劇だったらその象徴性が成り立つかもしれないけれど、全てがリアルな映画世界でこれやっても無理ですよ。主人公が何をしたかったのか、何を言いたいのか、殺意と決心はどこへ消えてしまったのか(「他愛もない話がしたい」って、なんなんだ!?)? さらに支離滅裂な最後のプリンの件り。表現として成り立っていません。安藤サクラとのホテルのシーンもそうですが、この男の哀しみや絶望や虚無感は、そんなことで表現されて行きはしないし、そこにはどうしても「作為的ウソっぽさ」が生じてしまうのです。山田君だって「セブンイレブンと魚民だけの食生活でなんとなく生きてるからダメなんだ」と言われても、痛くもかゆくもありませんよねえ。つくづく「表現」というのは難しいものだと思います。
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コメント
基本、同感です。
映画を観る事によって真理へのヒントを貰いたい訳ではなく、物語としてちゃんと腑に落ちたい。そういう物語を見せてくれるような予告だったので、尚更、唖然としてしまいました。ただ、役者が一々いいので、あまり責められない。怪作ですね。
投稿: ふじき78 | 2012年12月15日 (土) 22時42分