「おだやかな日常」:日本ムラ社会への異議申し立て
映画『おだやかな日常』は、あの忌まわしい緊急地震速報のチャイム音から始まります。3.11およびアフター3.11を題材にしたこれまでの映画の中では、最も感銘を受けました。また、あの頃の記録的意味合いからも、非常に意義のある作品です。
直截に被害状況や現地を描写するわけではなく、二人の女性とその周囲の人々を通して、この大災害(=主に原発事故)がもたらしたあれこれを描くのですが、シリアスでデスパレートで、終始胸が苦しかったです。それは、あまりにも身近というか、「私たちの記録」と言いたいほど、2011年春の日本人の記憶や気分や感情を映像に定着させているのです。
しかし本作では災害自体よりも、災害によってあぶり出された日本社会の「病い」を、より克明に描写していきます。 全体主義の恐怖と、日本社会が実は民主主義の衣をまとった全体主義=ムラだということを、これでもかと叩きつけます。男社会も女の社会も同様に歪んでます。そこでは突出した個人はおろか、個人の自由な意思や真実が、「出る杭」として叩きつぶされていきます。マジョリティーと言う名の暴力。こういう国民は政治家にとって、誠に扱いやすいものでしょう。たやすく誘導できてしまう。もっとも、この国では政治家もアレなんで、国民をうまく操作などできていません。そういう意味では、バランスが取れているって言うことができるんでしょうかね。
ある意味、過敏なまでに放射能を恐れるようになった女性の描写としては、園子温の『希望の国』の戯画化した描写よりもしっくり来ましたし、より迫るものがありました。
ラストあたりに垣間見られる「希望」のかけらは、作劇としては甘っちょろい気もしますが、これがあって良かった。これがないと、あまりにも辛すぎます。そんな暗いばかりの映画は、時を経て残っていかないのです。このラストがあったからと言って、本作の問題提起が弱まるってことはないのです。「見て見ぬふり」をして、何もなかったかのように「おだやかな日常」を送ることの欺瞞と狂気を、我々は自らの問題として問いかけねばならないのだと思います。
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コメント
>政治家もアレなんで・・・
おーい、大江戸さんにザブトン3枚やっとくれ。
遅ればせながら「新年おめでとうございます。」
投稿: risi@いけばな | 2013年1月 4日 (金) 08時25分
risiさま、あけましておめでとうございます。
そうなんですよ、ほんとアレなんで困っちゃうんです。アレな上にアベなんで・・・。
投稿: 大江戸時夫 | 2013年1月 4日 (金) 21時42分