「コズモポリス」:デジタル退廃とネズミ男
映画『コズモポリス』は、作品の意匠としては久々にクローネンバーグらしい。つまり、前作『危険なメソッド』やその前の『イースタン・プロミス』あたりの、他の監督が作ったと言われたら信じてしまいそうな「普通の上質感」から、クローネンバーグらしいひんやりとした神経症的ダークネスの香る退廃世界に戻ってきたのです。
レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』同様の「リムジンもの」(あるのか、そんなもの?)として、室内の映像がイコール屋外の映像という幻惑感。外の世界の喧騒と車内の静謐。それとは対照的な主人公の静かな外見や行動と崩壊しつつある内面の狂気。ここらが、いかにもクローネンバーグらしいところです。今までよりもデジタルにつるんとした退廃。
そして妙に観念的、哲学的な言葉がそのまま飛び交うあたりもまた、後年のクローネンバーグらしさでしょう。ここらが小生には退屈でげんなりしてしまうところなんですけどねえ。
ジュリエット・ビノシュ、サマンサ・モートン、マチュー・アマルリック、ポール・ジアマッティと豪華な面々が脇を固めるというか通り過ぎていくのですが、いやーサマンサ・モートンがやけにオバサン化していてビックリでした。脛の太さがハンパなかったです。 そしてポール・ジアマッティが、実写版「ネズミ男」でした(大泉洋もビックリ)。あのほっかむりタオルの薄汚れたグレージュと、あのひがみ根性は、まさにネズミ男。 あ、そういえばこの作品の重要なモチーフとして終始ネズミが使われていましたっけ。なるほど。
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