「それでも夜は明ける」:自己正当化と他者の否定
映画『それでも夜は明ける』は、いかにも芸術科学アカデミーの皆さんが好みそうな作品。アメリカの過去の悪を暴き、告発する真面目な作品。これだけ真正面からシリアスに奴隷制度の悪を描いた作品って、意外とここ数十年の映画には無かったのですよね。だから、とにもかくにも製作したこと自体に意義がある作品なのです。
いやー、それにしても恐ろしい事実です。昔のことだからと水に流すわけにはいかない、忘れてはならない汚点(shame)です。我々としてはいやがおうにも北の拉致問題を想起してしまう事柄でもあります。
この問題が怖いのは、人間の本性に起因しているから。すなわち、自分に都合の良い理屈を組み立てて自己正当化の論理を構築し、そのうちに自分でその理論に取りこまれて信じ切ってしまうこと。そして自己正当化のための他者の否定です。今の世の中でもいろんなレベル、いろんな局面でお目にかかることだと思います。いや、むしろ人間の歴史はこの繰り返しですよね。宗教にせよ、戦争にせよ、政治にせよ・・・。
『SHAME シェイム』でもスティーヴ・マックィーン監督と組んだマイケル・ファスベンダーが、唾棄すべき悪人役をハードに演じておりますが、むしろその奥さんの鉄面皮ぶりの方が怖いかも。人間の思想の持つ暴力性(自己正当化と他者の否定)を表現して、ただただ恐ろしいものがあります。
ベネディクト・カンバーバッチが理解のある白人農場主ではありましたが、終盤に登場するブラッド・ピットが最高に「現代的思考のできるいい人」(当時としては変わり者か?)で、この人の登場により一気に物語が収束してしまうあたりが -まあ「事実に基づく」んでしょうけど- ドラマツルギーとしてはちょっと腰砕けですね。 どうもそこらの弱さのために、名作には至らなかった気がいたします。最近大はやりの「事実に基づく」映画に共通する弱点です。
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