「野のなななのか」:実験的メッセージ映画
21世紀の大林映画って、なんかズレちゃた気がして、正直つらいんです。好評を博した前作『この空の花-長岡花火物語』にしても、ナマなメッセージが前面に出過ぎていて、「映画として時代を越えて残る作品」というよりは「時代にモノを言うジャーナリスティックなグラフィティ」としての存在が、ある意味異様でした。とはいえ、大林さんにとっては、それもまた“A MOVIE”なのでありましょう。
大林さんご本人は前作と本作を「シネマ・ゲルニカ」と称しているそうですが、なるほど平和への希求や、戦争や原発を推し進めた人への静かな怒りがメッセージとして心に刺さるという意味では、そして従来の映画をぶち壊して新しい表現に挑んでいるという意味では、この呼び名は的を射たものと言えるでしょう。
一方で、時制を無視して、現在と過去を、生きている人と死んでいる人を、年齢や時代を激しく交錯&往来させながら突っ走るアヴァンギャルドな手法がどこまで成功しているのかというと、小生としては疑問です。 少なくとも寺山修二の『田園に死す』や鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』が「、生と死とアートと映画を見事に融合させていたほどには、うまくいっていないのではと思いました。
それでも、前作『この空の花』よりもさらに「自由」になった気がします。生涯実験映画作家の面目躍如であることは確かでしょう。
登場人物たちが棒読み風の台詞回しを物凄い早口で語り続けるもので(特に序盤は凄かったです)、その言語情報を処理するために、脳がひどく疲れました。途中でもうオーバーヒートしそうになりました。大林映画だけにカット数もまたやけに多いもので。2時間51分を観終えた時には、4時間半ぐらいのものを観たような脳の疲れを覚えた大江戸なのでした。
| 固定リンク
コメント