「無伴奏」:この時代、この設定にした意味は?
映画『無伴奏』は、学園紛争時代の学生と社会を描いた作品なのかと思ったら、途中から話はあらぬ方向に発展し、時代背景は割とどうでもよくなってしまいました。予備知識なしで観たので、結構驚きましたね。おお、そっちへ行くのか!って感じで。
というわけで、何のためにこの時代背景でこういう作品にしたのかがよくわからない状態に陥っていると思います。うーん、矢崎仁司監督、好きだったんですよねー、『花を摘む少女 虫を殺す少女』『ストロベリーショートケイクス』の頃は。なので残念。
画面がひどく暗いのも気になりました。だって、多くの場面で人物の顔が見えないんですよ。会話の声はすれども、表情などは全く分からず。しかも1-2ヶ所なら、何かの効果を狙ってのことか?と思うのですが、やたら多用してて、でもその意図は見えませんでした。
あと主人公たちが出入りする音楽喫茶「無伴奏」で、かなり大きな声でおしゃべりしてるのですが、あれは別の客から文句言われますよ、あの手の店では(ま、映画だから、黙ってるわけにいかないとは思いますが)。
それにしても本作の成海璃子といい、『蜜のあわれ』の二階堂ふみといい、脱いでるのに不自然極まりない胸の隠し方(腕で押さえて)をしてるのが、何か興ざめですね。
そして池松壮亮のいつもいつもの、あの力を抜いた棒読み風エロキューション(やや訛ったような)は、いったい何なんでしょうね?
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