「ウーマン・トーキング 私たちの選択」:「映画」になっていない #ウーマントーキング #私たちの選択 #サラポーリー
映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は、世界的に評判がいいんですけど、それは実にタイムリーだったからで、映画としてはてんでダメだと思います。
とにかく#MeToo運動が火をつけた大きな流れの中で、その題材とテーマ性が、「この映画を評価するのが、自分のなすべき正義」みたいな感じになっちゃってます。確かに女性にとっても、男性にとっても観て考えるべき映画には違いありません。でもねえ…
大江戸は映画をそのテーマや「語られている内容」だけで評価してはいけないと信じております。だって、それでいいんなら映画にしなくても小説や、極端に言えばあらすじでいいわけです。そうではなくて、やはり映画ならではの語り方、映画ならではの描写、つまり映像と時間にものを言わせてくれなくちゃいけないのです。
なのに映像は停滞し、蓮実先生流に言え…。ば「ショットが撮れていない」し、この精彩を欠いた舞台劇みたいな作品の中で唯一映画が息づいたのは、ラスト・シークェンスだけでした。そもそも、こんなに動きがなく会話だけの作品だったら、映画にする意味がないじゃないですか。映画的興奮はほぼ皆無の作品でした。頭でっかちで、映画になっていないのです。
それにしても、この作品の舞台が2010年だと知って、大いに驚きました。ガラパゴス的な宗教の村という設定なのですが、それより100年ぐらい前の話だと思ってました。『刑事ジョン・ブック 目撃者』に出てきた「アーミッシュ」という敬虔なクリスチャンの村と似たようなところがありますね。
あと、モンキーズの“Daydream Believer”を鳴らしながらやって来る国勢調査の車の運転手って、ちょっとドアミラーに写っただけだったけど、ブラッド・ピットじゃないでしょうか(ピットさんは本作の製作総指揮なのです)? そうだと思ったんですけどねえ…。
| 固定リンク
コメント